Coach Interview

コーチ紹介インタビュー

“努力をすれば実る”と感じた大きな成功体験

 

―― コーチになるまでのことからお伺いしたいと思います。子供のころのことから教えていただけますか?

 

私は新潟県出身で、町が田んぼのど真ん中というところで育ちました。遊び場は田んぼや川で、毎日泥んこになって帰ってきてました。

 

小学校の頃は兄や近所の友達とカラーバットとカラーボールを使って、野球ばかりしていました。お父さんたちも草野球をしていたので、親子野球をしたり、野球大会に参加したり、子供の時から周りに野球をする環境がありました。

 

 ―― 野球がお好きだったのですね。どのくらいまで続けられていたのですか?

 

今も野球を教えているので、今までですね(笑)。選手としては30過ぎまで続けていました。その頃から選手から教える側に立たなければならなくなったので、自分がプレーすることに時間を割けなくなってしまったのです。

 

 ―― そうだったんですね。ずっと野球に関わってこられたということですが、小学校以降のことも教えてください。

 

高校を選ぶ際は、プールがない学校に行きたかったんですよね(笑)。実は、耳を手術したことがあり、小学3年生の頃からプール授業をずっと受けられなかったんです。

 

近隣にプールのない高校は2つしかないと聞いていました。母校の方は難易度が高いので、担任の先生からは「お前の頭じゃ無理だ。」と言われていたんです(笑)。でもそこしか行きたくなかったので、先生に「行ける方法を教えてください。」と頼み込んで、各教科分の参考書を購入し、教えてもらった方法で勉強を始めたんです。分厚い参考書だったのですが、全問正解するまでひたすら説き続けましたね。何周も繰り返して、全問正解したら、また1からやり直すという勉強法を続けた結果、合格できたんです。先生に合格を報告したら、非常に驚いていましたね。その時、努力すれば実るんだなと感じました。自分にとって大きな成功体験です。

 

高校では、野球部に入って3年間がんばりました。しかし、勉強は全然ついていけなかったですね(笑)。380人中378番を取ったこともありました。しかも2人は欠席だったので実質最下位です(笑)。だから大学進学についてはあまり考えていなかったですね。

ところが、高3の7月に野球が終わったときに、そこから教員免許を取りたいと思う様になったんです。当時は偏差値が32くらいだったのですが、そこから3ヶ月くらいがむしゃらに勉強して、野球での自己推薦で1校受かり、最終的にはセンター試験で志望校に合格しました。進路に関しては、高校受験、大学受験ともに短期集中で良い結果を残すことができました。

 

 

 


自主的に考え、行動することができる人を育てる指導をしたいと思い教員を目指す

 

―― 教員免許を取りたいと思ったきっかけは何ですか?

 

高校野球部での経験ですね。

野球部での3年間、監督が毎年変わっていたんです。2年生,3年生の時の監督においては、ほぼ指導はありませんでした。その時、『指導を受けてやる野球』ではなく、『自分たちで考えてやる野球』をしなければなりませんでした。甲子園にも行きたかったので、自分たちで工夫して練習をしました。当時の高校野球では、まだ監督の指示どおりに練習することが当たり前の時代で、私たちのチームは珍しかったと思います。3年生の時、甲子園に出場した日本文理高校と夏大前に練習試合をしたのですが、私たちのチームが勝ったんです!自分たちの力で、そこまで成長することができたということなんですね。

 

この経験から、『自主的にやる』というのはとても大事なことだと感じました。そして私は教員になって、子供たちが当たり前のように自主的に行動できるチームを作りたいと思うようになりました。

 

よく「理想とする先生はいらっしゃったんですか?」と聞かれることがありますが、私の場合、反面教師で「こういう先生にはなりたくない」「もっとこうであったら良いのに」というところから自分で理想とする教師像を作っていました。

そして『生徒の気持ちに耳を傾ける先生になりたい』という想いが強くなり、教員を目指そうと大学へと進学しました。『相手の気持ちに寄り添いたい』という想いはコーチングにもつながりますね。

 

―― 高校野球部での経験がきっかけなのですね。大学に入ってからのことを教えてください。

 

大学の硬式野球部に入部を希望していましたが、1部リーグに所属していて非常に強いチームでした。実は推薦入学で入った人や、監督からの推薦がある人くらいしか入れなかったようです。そんなことを全く知らない私は普通に入部依頼の電話をして簡単に断られました(笑)

そこで、準硬式野球部という体育会の部活に入部することにしました。準硬式野球部にも甲子園の出場経験がある人がいて、とてもレベルの高いチームでした。そこでの野球人生が一番充実していたと今は思います。

 

4年間ピッチャーで、大学3年の秋まで負けたことがなかったんです!そして各大学から集まる選抜チームに選ばれてグアム遠征にも行かせてもらいました。選抜チームでは完全試合を達成したこともありました。そういった功績から、連盟と大学から表彰されたこともあります。

 

もし、硬式野球部に入っていたら、ベンチにも入れなかったと思います。部員が130人位いて、ベンチに入れるのは20人ですからね。今思うと、準硬式野球部に入って本当によかったと思います。

 

―― 活躍され、充実した大学時代を過ごされた後、どうキャリアを選択してこられたのですか?

 

教員採用試験に落ちてしまったので、就職課に相談をしに行ったら、そこに硬式野球部の監督がいたんです。準硬式野球部での実績など話をしたところ「選手を探しているチームがあるから」と軟式野球部のある信用金庫を紹介してもらい、そこに入社することになったんです。

 

入社した信用金庫の軟式野球部はとても強いチームでした。東都一部リーグの大学でレギュラーとして活躍していた選手もいて、そこでの野球が今まで経験した中で一番レベルが高かったですね。

 

仕事をしながらの野球はとにかく大変でした。私は本店で出納を出す部署に配属されたのですが、他の支店よりも仕事量が多くて終わるのも遅かったんです。それでも先輩たちに「練習時間までに来い!」と厳しくたたかれました。午後3時に閉店するのですが、お金を合わせるのに通常2時間くらいかかるところを、私は30分で合わせて野球の練習に向かっていました。本店の他の社員からしたら「ちゃんと数えているの?」と思われていましたが、仕事はちゃんとこなし、効率よく働いていましたと思います。

 

軟式野球では最高峰の天皇杯という大会があるのですが、そこで準優勝し、故高円宮殿下から直接メダルを頂いたこともありました。一方で全国大会では、ピッチャーとして1アウトしか取れず、すぐに降板したこともあります。チームメンバーのユニフォームを洗ったりする雑用ばかりという時期も経験しました。

 

その後、信用金庫の合併によって野球部が1年目で廃部になったんです。もともと教員になりたい気持ちはあったので、廃部が決まったことを聞いて会社を辞め、埼玉県で常勤講師として働き始めました。そこから教員の道へ歩み始めました。

 

 


隠された才能発揮させることにやりがいや面白さを感じていた教師時代、そして、コーチングで自分が変わった経験からコーチの道へ

 

―― 念願の教師になられたのですね。

 

大学では社会福祉学部だったので、教授から埼玉県にある特別支援学校を紹介してもらったご縁で当時の養護学校で働き始め、知的障害の特別支援学校で7年間(埼玉県で3年間、東京で4年間)、聾学校でも7年間勤務し、計14年間教員として務めていました。

 

元々絵を描くことも好きなので、特別支援学校の子供たちの独創性や才能は自分の枠をどんどん超えていき、その隠された才能を発揮させることは非常にやりがいがあり面白いと感じていたことも特別支援学校の教師になった理由でもあります。

 

 

 ―― そこからコーチになろうと思われたきっかけは何ですか?

 

35歳の時に「自分は生きる価値があるのだろうか」と考える出来事があり、その時開き直って「残りの人生いつ死んでも構わない、それだったら後悔しない人生を歩もう」と思い始めたんです。そこから今までやりたいけどやってこなかったことを実行に移していきました。『夏休みは海外の色んな国へ行ってみよう』とか、『英語を勉強して年末年始はニューヨークに行こう』とか思ったことを全て実行していきました。そんな中で、コーチと出逢い、人の人生に関わる仕事があるということを初めて知ったんです。

 

そのコーチは当時25歳くらいで若く、ちょっと怪しいかなと思いながらも、コーチングをお願いすることにしたんです。後になって知ったのですが、彼にとって私は初めてのクライアントだったそうです。彼はとても一生懸命に関わってくれ、コーチングを受けていく中で自分がみるみる変わっていくのを実感しました。

 

それから、私もコーチングの仕事をしてみたいと思う様になったんです。そして、自分らしさを活かすために、スポーツメンタルコーチの勉強を始めようと決めました。

 

 ―― 決めてからどうされたのですか?

 

スポーツメンタルコーチの養成スクールで勉強をしながら、教師の仕事をしていました。ちょうどその頃、学校で上司とうまくいかず、コーチングの勉強が修了したら教師を辞めようと思っていたんですよね。でも、うまくいかないから辞めるというのは自分の人生を良くしないなと思い直して、もう1年間学校の為に貢献しよう、恩返ししようと思い、今まで後ろ向きだった仕事内容も前向きに受け入れて取り組んでいきました。自分の意識をちょっと変えるだけで、仕事のやり方も効率も周りに対する印象もここまで変わるんだなと実感した経験です。

そして、教師を辞めてコーチとしての道を歩み始めました。

 

 



 

これまでの経験をすべて生かし、スポーツメンタルコーチだけでなく幅広く仕事に取り組む

 

 

 ―― 現在のお仕事について教えてください。

 

コーチングの仕事では、手話を使ってデフサッカー、デフフットサル日本代表のメンタルトレーナーや、me:Riseでのキャリアコーチをしています。

 

他にも色々なことをしています。高校野球の監督や、聾学校の時間講師としても働いています。また、様々な障害をもつ人が集まって社会人フットサルチームを作っている組織があるのですがそこのメンタルサポートや、、知的障害者グループホームの運営サポートなど、やりたいことを仕事にして過ごしています。

 

―― スポーツメンタルコーチを学ばれたということですが、アスリートコーチングとキャリアコーチングとの違いはありますか?

 

私が大切にしているコーチングのポイントは同じです。

シンプルに『今は何が起こっているのか、状況はどうか』『本当はどうなりたいか』『今、自分ができることは何か』という3つの問いと、『自分らしさの探究』、『ビジョン・ミッション・価値観・自分軸の明確化』です。

どちらも変わらないですね。

 

―― なぜme:Riseでキャリアコーチをされようと思ったのですか?

 

私は普段スポーツ選手に関わることが多いので、自分の知識や考え方がスポーツ中心になってしまいます。me:Riseで様々な仕事や価値観を持つ人と触れ合うことができ、たくさん刺激をいただくことは、とても学びになり、アスリートサポートにも活かされています。

 

me:Riseでの経験は、将来的には学校のキャリア教育に活かせるのではと思っているんです。これから仕事を選択する子供たちに、仕事で起きうる悩みなどを共有することで、仕事の選び方のヒントにつながるのではないかと思っています。

 

―― キャリアコーチの高橋さんから見たme:Riseの良さとは何ですか?

 

サポーターシステムです。もっと多くのユーザーさんに活用してもらいたいですね。

そして、多種多様なコーチ陣ですかね。他のコーチの方たちとミーティングで会う機会があるのですが、皆さん経験豊富なコーチばかりなので、同じコーチの一員として参加させてもらえることもありがたいと感じています。どのコーチでも安心してご相談いただけると思います。そしてme:Riseは必ず皆さんの力になれる場所だと思います。

【Profile】

高橋 基成

旧太陽信用金庫(現 城北信用金庫)にて業務に従事。その後、一念発起して特別支援学校の教師に転職し14年間勤務。現在新たなステージへの挑戦するため、幅広い世代のスポーツ選手のメンタルコーチに転職。2017年よりデフサッカー・フットサル女子日本代表のメンタルサポート。他にも(株)未來舎と業務提携し、グループホーム管理責任者などの福祉業務も兼務。

 

自身も経験した大幅なキャリアチェンジに必要な自分軸の発見と、強みを引き出すコーチングには定評がある。

 

(一社)フィールド・フロー認定スポーツメンタルコーチ、SBT3級コーチ、教員免許(小学校・中学校・高校・特別支援学校)